ミュージカルは終わらない Musicals won't be over.

舞台ミュージカルを中心とした、ミュージカル映画、演劇、オペラに関するブログ

『ジーザス・クライスト・スーパースター(1973)』Jesus Christ Superstar

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ジーザス・クライスト・スーパースター(1973)』とは

1973年のアメリカのミュージカル映画

1970年に発表された(ブロードウェイ初演は1971年)同名のミュージカル作品を基にしている。

アンドリュー・ロイド=ウェバー作曲、ティム・ライス作詞。

ジーザスを演じたテッド・ニーリーとユダを演じたカール・アンダーソンはそれぞれゴールデン・グローブ賞にノミネートした。

監督はノーマン・ジュイソン

あらすじ

ある荒地に、バスの乗ってやってきた若者たちは、ジーザスが磔にされるまでの最期の日々を演技で再現しようとする。

ローマ帝国領のパレスチナ

ジーザスは、人々に新しい教えを説き、数々の奇跡を起こしていると民から慕われていた。

しかし、弟子の一人、イスカリオテのユダにとってジーザスは「神の子」ではなかった。

ジーザスを愛するユダには「全て御心のまま」という師の真意が理解できなかった。

マグダラのマリアもまたジーザスを愛していた。

彼女はかげりのない純粋で献身的な愛をジーザスに注ぐ。

『ジーザスが「ただの人」だと露見した時、人々はそれを許すはずがない。彼らの怒りによってジーザスは押しつぶされてしまうだろう。』

そう予感したユダは、師であるジーザスを裏切る決意をする。

弟子との最後の食事でジーザスはこの中に裏切り者がいると指摘する。

同様する弟子たちをよそに、ジーザスは独りゲッセマネの園で父なる神に問いかける。

銀貨30枚と引き替えにユダは師の居場所を教え、ついにジーザスは捕らえられる。

支配者たちの間をたらい回しにされ、侮辱され、嘲笑されても、ジーザスは抵抗しない。

あまりにも無力に見える彼の姿に民衆は失望し、「彼を殺せ、十字架にかけろ」と叫び続ける。

ユダ、マリア、シモン、ペテロといった弟子たち、ユダヤ教の司教、ローマ帝国総督、そして民衆。

様々な思いが交錯する。

キャスト

ジーザス テッド・ニーリー

イスカリオテのユダ カール・アンダーソン

マグダラのマリア イヴォンヌ・エリマン

ピラト バリー・デネン

カヤパ ボブ・ブリンガム

シモン ラリー・マーシャル

ヘロデ王 ジョシュ・モステル

アンナス カート・ヤージアン

ペテロ ポール・トーマス

感想

アンドリュー・ロイド=ウェバー(以下ALW)とティム・ライスによるこの傑作ミュージカルは2度映画化され、何度かlive concertがディスク化されています。

本作は最初に作られた映画版です。

本作の特徴は、ヒッピー風の若者たちが演じるという形をとっている点。

ただ劇中は彼らが演じているということをすっかり忘れてしまうほど、素晴らしい出来になっています。

バスで荒地を訪れた若者たちは、全てが終わると再びバスに乗って帰っていきます。

しかし、その間は彼らはジーザスであり、ユダであり、マグダラのマリアそのものなのです。

過去を振り返って、確実に指折りに入る名作ミュージカル映画と断言できます。

役者の熱量、楽曲、構成、ロケーション、全てが秀逸です。

ユダを演じたカール・アンダーソンは50代で白血病のため亡くなってしまいましたが、本作での彼のユダは実に見事で、見るたびにカタルシスを覚えます。

(こう書いていて、自分の語彙力不足に辟易してしまいます。筆舌に尽くせないとはこういうことを言うのかもしれません。)

また、ジーザスのニーリーはまず外見がイメージ通りですし、その上、高音のshoutingもしっかり出ていて素晴らしく、これまたこれ以上ないキャスティングです。

マグダラのマリアを演じたのは日系アメリカ人のエリマンですが、彼女はレストランで歌っているところをALWにスカウトされたのだとか。

マリアの歌う「I Don't Know How To Love Him」はのちに様々な人が歌っていますが、個人的には彼女のパフォーマンスがやりすぎず、且つ、抑えすぎずで、好きです。

また、ヘロデ王はそれぞれのヴァージョンで派手な出で立ちなのですが、本作ではメタボリックシンドロームエルトン・ジョンのようなヘロデ王になっていて、強烈なインパクトがあります。

舞台版からは台詞や歌詞が一部変更されています。

一例として、ジーザスが病人や乞食たちから群れられるシーンの終わりで、舞台版では「自分たちで癒せ!」と言いますが、映画版では「一人にしてくれ!」に変更されています。

本作は70年代の他の映画にもあるように、一部静止映像が挟まれているのが少しだけ気になりました。

また、アップの映像が多すぎるなと感じたのですが、最終的に振り返ると、民衆たちの異常な熱狂ぶりを表現したり、登場人物たちの苦悩を表現するのに有用だったのかなとも思いました。